慰安婦問題に関する資料/写真を検証するサイト
「従軍慰安婦」と聞くと、かわいそうな人をイメージする方も多いのですが、
戦時中は慰安行為(性的なサービス)によって収入を得る女性が多く存在しました。「慰安婦」と呼ばれた人たちです。
(※戦時中は職業として公に認められていた)
撮影場所:ミッチーナー(現ミャンマー)
(下)「慰安所の入り口」
「従軍」とは軍に同行する人すべてを指します。
「従軍記者、従軍看護婦、従軍カメラマン」などは存在が確認されています。
上の写真のような従軍慰安婦(自ら志願したと思われる)はいましたが、
強制によるもの?がいたかどうかは「証言」以外に証拠がありません。
【動画】 台湾人の証言
(下)慰安婦を募集する広告
※月収300円以上と書かれている
(広告の説明)
女性の工場労働者が月収20~50円くらいしか稼ぐことが出来ない時代に、
学歴の無い女性が「京城紡績」で働き始めても、馴れるまでは「月収20円以上」は稼げない時代です。
募集の広告に「売春」とは書いてありませんが、
異常に高い給料で「慰安」といえば普通の仕事ではありません
現代社会でも直接的な表現はしませんが、異常な高給で接待して稼げるのは特殊な仕事だと解るはずです。
以降は、重要な「証言」について記述
「慰安婦問題」の原点となったのは朝日新聞の報道(吉田清治の証言:済州島での慰安婦狩り)ですが、これらは捏造
※吉田清治は、「みずから済州島(チェジュ島)で慰安婦狩りをした」との証言をしているが、親族の話によると
そもそも「本人は済州島に行ったことすらない、地図を見ながら原稿を書いていた」(長男の証言)
朝日新聞の誤報記事(吉田証言)が韓国に飛び火して、韓国で慰安婦問題が勃発した
従軍慰安婦の証言
以下はすべて、従軍慰安婦として有名な「黄錦周(ファン・クムジュ)さん」1人による証言です。
(1) 従軍慰安婦と戦後補償 / 著者:高木健一
「生活は貧しく、12歳のときに100円で売られた。ソウルの金持ちの家で小間使い。1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、その家の娘の身代わりとなって満州に連行され従軍慰安婦となった」
(2) 国連・経済社会理事会クマラスワミ報告 / 1996年1月4日
「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。」
(3) TBSのテレビ番組「ビートたけしのここが変だよ日本人」(従軍慰安婦問題)
「私は19歳で学校を卒業する25日前に、日本軍に引っ張り出され、仕方なく慰安所に行ったんだ」
(4) 「日韓社会科教育交流団韓国を訪問/1997夏期
「満18歳になったある日、男がやって来て、村から娘を提供するように言いました。」
(5) 旧日本軍「従軍慰安婦」の証言を聞く集会 / 1997年12月5日
『村の班長(日本人)に「一家に一人は行かなくては」と脅され、1941年、韓国を離れましたが、到着した場所は、慰安所でした。』
(6) 黄錦周さんの証言を聞く会 / 2001.07.17 / 東京大学にて
「14歳のとき、いわゆる「少女出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスの道具にされた。つらい体験だった。」
講演をするたびに証言を変えており、信憑性が乏しい。
しかし彼女は、有力な証言者として多くの歴史学者に引用され続け、日本の学生たちが「虚偽の歴史」を学ぶ原因になった。
「文玉珠(ムン・オクス)」さんの証言
「文玉珠(ムン・オクス)さん」という従軍慰安婦の女性は、1992年に日本の郵便局を訪れ、
2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています。
文玉珠さん・預金口座
彼女は、自身の体験記の中で
「1000円もあれば故郷の大邱(テグ)に小さな家が一軒買える」と述べていますが、現在の貨幣価値なら、
4000万~5000万円程度の大金を、彼女が従軍慰安婦であった約3年間で貯めていたことが分かります。
ナヌムの家に住む従軍慰安婦 「李容洙(イ・ヨンス)さん」の証言
→ 「16歳の時(1944年)に台湾に連行され、1947年まで3年の間、従軍慰安婦としての生活を強制された」 と証言
※つまり1945年の敗戦によって日本軍がいなくなったあとも、現地で2年間ほど働いていたことになる)
↓
このことを指摘されると、慰安婦であった期間を 「3年間→1年間」に2年分カット
(下の写真)2007年さいたま浦和の公演の配布資料
ここまで書きましたが
従軍慰安婦の中で、信憑性のある証言者はひとりも現れていません。
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